準備中




『夜景』  (浅野 泰博 編)  

女性らしい人だな。
まず最初に、そう思った。

年のころは二十代半ばを過ぎたくらいだろうか。僕や慎一郎よりも、少し若い。

「こんばんは、浅野さん」

そう言って彼女は軽く会釈した。
湾岸の夜景は黒く、海に沈みそうな景色の中で彼女の姿は白く浮き上がって見えた。

「こんばんは。お会いするのは、何度目になりますか」


「三回目……いえ、四回目かも」

適当に距離をとって足を止める。僕は見知らぬ相手とは、特に相手が女性の場合、距離をあけて話すようにしている。人に近寄るのがもともとあまり好きではないし、この方が逆に相手の印象もいいと経験から知っていた。

彼女が僕の後ろを眼で探った。きっと、夫の姿を探しているんだろう。
僕は申し訳なくて苦笑を浮かべる。

「すみません。実はアイツ、残業になってしまって」

「残業?」

「飛び込みの会議があって。僕が代理に出ようかとも言ったんですが向こうの会社が慎一郎を指名してきているから、と」

彼女は小さく息を吐いた。
溜息をつくのに慣れている感じだった。

「……困った人。さっきメールが来たんです 『遅くなる 代わりに浅野が行く』って、それだけで」

「ええ、慎一郎に頼まれました。会議で30分ほど遅れるという伝言と、 待ち合わせ場所を変更したいからあなたを連れてきて欲しいそうですよ」

「浅野さんにそんなことお願いするなんて。……すみません、ご迷惑をおかけして。あの人いつもそうなんですか?」

「そうですね、割と。でも僕はどうせ暇なので気にしないでください。 そういう訳だから僕と短いドライブになりますけれど構いませんか?」

彼女の顔に微かな戸惑いが浮かぶ。申し訳ないと思っているのが表情に出ている。
僕は彼女を和ませるために微笑を浮かべて、視界の端の駐車場を指差した。

「あそこに車を停めてあるんです。夜の高速に乗ったことはありますか」

「あまりないです。いつも電車だから」

「じゃあ高速経由で行きましょう。こちらです。付いてきてください」

あまり広くない駐車場の端に、車を停めておいた。
助手席のドアを開けると彼女が 『すみません』 と呟きながらシートに腰を下ろした。
たおやかな、形の良い脚が揃えられて助手席に納まる。

「浅野さんって、いつから車なんですか?」

エンジンをかけると彼女が聞いてきた。

「いつから、とは?」

「あ、ええと、いつ車を買ったのかな、と思って」

「大学1年の時ですよ」

「就職してから、とかじゃないんですね」

「僕は電車が好きではなくて、どうしても他の移動手段が欲しくて買いました。最初の車は何年乗ったかな。この車は三台目なんです」

車は駐車場を出て、高速へ滑り込んだ。
エンジン音と風の音。ハイスピードの走行音が、音楽のようだ。

「慎一郎とも大学で会ったんですよね」

「そうです。 僕も同じ講義を受けてて、お互い顔だけは知ってたんですよ。 でも、気が合いそうなタイプにも見えなかったんで、関わることはないと思っていたんですが」

「……何か事件でも?」

「ありました。大学に向かう電車がちょっとした事故で停まってしまったんです。それにたまたま僕が乗ってて。 事故は大したことがなかったんですが、いつまで経っても電車が動き出す気配がないし、ドアは開かない。退屈で退屈でしかたがなくて、いっそ眠ってしまおうかと思っていたら同じ車両内に知った顔がありました」

「それが慎一郎ですか」

「そうです。あれ、やあ、なんて手をあげて声をかけて、まいったね、なんて話をしているうちに気がついたら1時間経ってました」

「じゃあ、それで親しくなったんですね」

「親しくというと語弊があるかもしれないんですけど……互いに、話してみて嫌じゃない相手ってことがわかって」

僕と慎一郎の関係は、本当に腐れ縁としか言いようがない。
でも 『仲の良い友人は?』 と聞かれれば真っ先にアイツの顔が頭に浮かぶ。多分、慎一郎もそうなんだろう。だから続いている。

「……いいなぁ」

不意に彼女が笑った。

「私もそれなりに友達はいるんですけど。就職してから、ほとんど会えなくて」

「……ああ、そうか。勤務時間が」

「そうなんです。友達は普通のOLが多いから。そうすると、私みたいなホテル勤務だと休みが合わないんです。 会いたいね、また今度ね、なんて言ってるうちに何年も経って。気がついたら友達も結婚しちゃったりして。私だけおいてけぼり」

「でももう違いますよ。あなたも慎一郎と結婚したんでしょう?」

「……そうですね。私も結婚しましたけど……」
 
考え込みながら彼女が呟いた。

「結婚したといっても、あの人あんまり帰ってこないから実感がなくて。
一人暮らしで、ちょっと部屋とベットが広くなっただけみたいな感じがするんです」


「それは……困ったものですね」

「夜も帰りが遅いから気がついたら隣で寝てたっていう感じで。
本当に、どうして体壊さないんだろう……」


唇に指先をあてて考え込む横顔に、ほんの一瞬、視線を送った。

彼女は慎一郎と眠る。
当然、抱かれたりもするんだろう。

友達や知り合いの妻を紹介されると、つい、この二人がセックスするのか、と考えてしまう自分は下品な人間だ。想像して楽しいものではないのにどうしてそんなことを思ってしまうのか。
でも。

ふと、思う。

彼女なら見てみたい。

彼女がどんな風に乱れるのか、どんな姿態を晒すのか。
慎一郎に抱かれて喘ぐ彼女の姿は、想像するだけで危険だ。

(―――なんて)

こんなことを思っていることがバレたら慎一郎に殺されるな。

「……綺麗ですね」

突然、彼女が呟いた。何の話だろう。

インターチェンジでスピードが緩んでハンドルを握ったまま隣のシートを見た。
彼女が窓の向こうをみつめている。
黒い海。群青の空。遠いビルの影と、明滅する赤い光。残念ながら月はない。
けれど行き過ぎる車のヘッドライトが彼女の横顔を映し出す様は、ぞっとするほと美しかった。

「ビルの群れって、あんまり好きじゃないんです。 ちょっと息苦しい感じがして。
でも、こんなに綺麗なんて思わなかった」


「……見ていると、頭がぼうっとしてきませんか」

「そうですね。……吸い込まれそう」

「僕はこの感覚が好きで、よく湾岸から夜景を眺めに来るんです。時間を持て余した時とか一人でいたくない時とかに」

と、彼女が小さく笑った。
よくできた人形のように見えていたその顔が急に生気を取り戻す。

「……それって淋しい時、ってことですよね」

前の車が動き出して僕はアクセルを踏み込んだ。

ふわっと車内の空気が動く。彼女が夜景から目を離して、こちらを向いたようだ。運転中だからはっきり見ることはできないけれど長い髪が視界の隅で揺れた。

「そういう時は、うちに来てくれたらいいのに。 慎一郎も私も、浅野さんだったらいつでも歓迎します」

―――社交辞令、なんだろうけど。
彼女の言葉に、なぜか一瞬泣きそうになった。

「……はは、ありがとうございます」

僕は笑って彼女と自分の感情を誤魔化した。
なんだろう、この胸の熱い痛みは。
熱くて冷たくて重くて、どこか優しい……。

ああ、そうか。僕は今、嬉しいんだ。

「……けどあんまり邪魔をすると慎一郎から苦情が出ますよ」

「そんなの気にしないでください。私は浅野さんが来てくれるといろんなお話が聞けて楽しいです。
慎一郎だって口では文句ばっかり言いますけど楽しそうだし。
それに三人分のご飯を作るの、嫌じゃないから」


「嫌ではなくても面倒でしょう」

「面倒くさいの好きですよ。 浅野さんと慎一郎と二人大きな子供がいる感じ、なんだか嬉しいから」

「……子供、ですか」

「ええ。本当に子どもなんですよあの人。 時々そこに座りなさいって言ってお説教するんです。主に家事関係ですけど冷蔵庫を開けっ放しで他のことをするとか、そういうことしてはいけません、って。
……なんだか私あの人のお母さんみたい。やだな、もう」


あんまり嫌そうじゃない顔で彼女が言った。
笑いながらの言葉だから本当に嫌なわけじゃないんだろう。

きっと良い関係なんだろうな、この二人は。
その証拠に彼女はとても幸せそうだ。

―――チリっとした痛みが、胸を掠めた。

*  *  *

「……手間をかけて悪かったな」

悪いと思っていない態度で慎一郎が言った。苦笑した僕に彼女が丁寧に頭を下げる。

「色々有難うございました。今度またゆっくり遊びに来てくださいね」


「ええ、またそのうちに」

社交辞令に社交辞令で返して僕は二人に背を向けた。繁華街の片隅の駐車場は、ここから歩いて2・3分だ。

二人はこれから食事にでも行くんだろうか。そして家に帰って二人でのんびりするんだろう。明かりが灯された温かな部屋でコーヒーでも飲みながら身を寄せ合って。

一人には慣れているけれど。

今この瞬間、この明るい町の灯に消えていく二人が酷く羨ましい。
孤独を苦痛に感じることは、もうほとんどないけれど、こういう夜だけは胸が苦しくなる。

息を吐いた。
繁華街っていうのがまた良くない。楽しそうなざわめきの中で、行く場所がない僕は何なんだろうと考えたりしてしまう。

家はある。帰る所はあるのに、あそこは自分の居場所ではないと感じてしまう。
誰もいない部屋で叫びだしそうになる。

「……ったく、どうしようもないな」

この痛みは、放っておけば他の痛みに交じって消えていく。それを知っているから気にすることなんかない。無視していればいい。僕にはそれが出来るから。

でも、苦しい。
誰かに傍にいて欲しい。あとほんの少しの時間でいい。誰でもいいから。

そう思って、苦笑した。

――――どれほど渇望しても、僕には誰もいない。

流れる人ごみに逆らって、一人歩いていく。
いつか僕はこの寂しさを埋めることができるんだろうか。
それとも、感覚が鈍って痛みを忘れて生きられるようになるんだろうか。

わからないまま、夜の街を歩いた。

 


END

 

 

 

 

 


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