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少し薄い色の髪をしている。
柔らかくて細い。そして長い。
大切にしてやれば輝くように美しいはずなのに、潤いが不足して乾いている。
可哀そうにね。と、口の中で呟いて、俺は笑みを浮かべた。
「やあ、こんにちは」
「……え?」
髪よりも深い色の瞳が、一瞬意志の色を失う。突然声をかけた俺が誰か気づくのに1秒、それから、取るべき対応を選ぶのにさらに1秒。かすめるような短い逡巡の後、彼女は柔らかな笑顔を浮かべた。
アロマパークホテルの廊下を、落ち着いた足取りで歩み寄ってくる。
「いらっしゃいませ、神尾様」
つくりものの微笑。相手を安心させるための、けれど感情のはっきりしない顔。これは仕事中の顔だ。
そうか、ここは彼女の勤務場所だから、俺に対しても従業員としての態度を崩さないと決めたのか。
(真面目だね。そしてオトナだ)
こういう彼女の選択の一つ一つが、俺にはとても心地よい。
「ホテル勤務っていうのは知ってたけど、ここで働いてたんだ?」
「はい、アロマパークホテルのフロント回りを担当しております。
今日は宿泊のご利用ですか?」
「いいや、研修会。挙式関係の方の人間と少しね」
濃い色の制服に身を包んだ彼女は、私服の時とそう印象の違いはなかった。禁欲的な感じは強くなっているものの、普段からシンプルな格好を好む彼女だ。そう大きな差があるはずもない。
ただ、表情はまるで違う。いつもの砕けた雰囲気も、仕事帰りの気だるさもない。余分なものをそぎ落として美しく装い直したような、清楚で華やかな空気を彼女は作り出していた。
「……ま、研修といっても教える側だけどね」
「講師をなさるんですか?」
「そう。似合わないだろう?」
茶化して言うと、彼女の顔にクスっと笑みが閃いた。
つくりものではない本物の笑い。営業スマイルの向こうの本当の感情。
けれどそれはすぐに消えて、元通りアロマパークホテルの従業員の顔になる。
「研修会の成功をお祈りしております。
よろしければ会場までご案内致しましょうか?」
「ああ、それは必要ないよ。場所はわかってるから。それより、君の仕事は何時まで?」
「今日は16時過ぎまでです」
「暇なら食事でもどうかな」
「……お誘い有難うございます。ですが、あいにく予定が入っておりますので」
笑顔で断られてしまった。けれどこれはいつものことだ。社交辞令で言ってみただけなので別にダメージはない。俺は肩をすくめて、残念そうなフリをする。
「それじゃ仕方ないな。先約の彼によろしく」
「伝えておきます」
顔も知らない男への伝言を否定せずに受け取り、彼女は丁寧に頭を下げた。
華奢なパンプスのつま先が、照明を反射して控え目に輝いていた。
* * *
思ったより時間がかかったな。
時計を見るとかなりの時間が経過している。この手の講習会は好きではないが、同業者とツナギを取っておくためには、顔を出しておいた方いい。
つい癖で煙草を口に咥えかけて手を止めた。ここはホテル内で、当然禁煙だ。仕方ない、外に出るまでは我慢しよう。
溜息を一つついて、カーペットの上を歩いた。エレベーターにたどりつく、その途中。
(……この声は)
聞き覚えのある声がかすかに響いた。
彼女だ。
導かれるように人気のない廊下の角を曲がった。話しの内容までは聞き取れないが、どうやら電話中らしいことはわかった。
その声が唐突に途切れる。電話が終わったらしい。それと同時に、廊下の突き当たりに出た。その横にリネン室の文字。声はあそこから響いていたようだ。四角く切り取られた壁の内側をそっと覗きこんだ。
狭い部屋の奥、こちらに横顔を見せて彼女はいた。無数のリネンが積まれた棚の隙間に立ち尽くしている。
――――泣き顔が綺麗な女は、ほとんどいない。
大抵、鼻が赤くなって眼がグシャグシャで、何を言っているのかわからなくなる。
声も汚いし耳障りだ。
だから俺は、女の泣き顔は好きじゃない。
けれど彼女の涙は綺麗だった。
たった一人白い布に囲まれて、彼女は泣いていた。
狭いリネン室の狭い隙間で、誰にも気づかれずに涙を流していた。
透明な雫が頬を伝って彼女の胸元に落ちる。
泣いているのに、その姿はどこか凛として見えて、花のようだと思った。
触れたら壊れてしまう脆い花。
でもしなやかに美しく、瑞々しさに溢れている。
俺は一歩足を踏み出した。
彼女は自分に近づく俺に気づいたらしい。はっとして頬を押さえた。
指先で頬をぬぐう。
「やぁ、また会ったね」
「お疲れ様です。お仕事、終わられたんですか?」
一瞬前まで泣いていたくせに、もう笑顔を浮かべている。それでもまなじりが赤い。涙を流していた場面を見ていなくても、泣いていたことが一目瞭然の顔だった。
廊下の向こうから、バタバタと足音。
その足音に彼女ははっとして顔をあげた。視線を入口の方に向ける。
「誰?」
低く聞いた。同じく小さな声で、彼女は答える。
「多分、後輩の男の子です」
「泣いてたこと知られたくない?」
「……はい。できれば」
足音はもうリネン室の入口まで来ている。俺はこちらを向いて立つ彼女の片側に手をついた。
「神尾さん?」
「黙って」
そっと顔を寄せると、彼女の体がこわばる。唇が触れる寸前で止めた。両腕と背中で彼女を入口の視線から遮った。これでキスしているように見えるだろう。
「すみません、ここに……
っ!」
覗きこんだ誰かの息を呑む音。
「し、失礼しました!」
激しく動揺した声を残して、足音が遠ざかる。
逃げるように―――いや、逃げ出したんだな、これは。場慣れしていない若造の反応だ。俺は腕の中の彼女を見下ろして笑った。
「……君だって気付かれたかな?」
彼女は首を振ろうとして、やめた。それだけの動きで唇が触れ合ってしまうことに気づいたんだろう。体を緊張させたまま、至近距離で俺と目を合わせないように視線を伏せた。
「気が付いてないと思います。制服はみんな同じだし」
「そう、ならよかった」
もうしばらく腕の中の彼女を愉しみたい所だけれど、あまりやると嫌われてしまう。俺はついていた手を壁から離して、彼女から一歩下がった。
「お役に立てたかな?」
「……ありがとうございます、助かりました」
彼女は息を吐いた。後輩が去ったことと、俺が離れたことで安堵したんだろう。
「神尾さん、どうしてここに?」
「偶然だよ。仕事が終わって帰ろうとしたら、君の声がしたからのぞいてみたんだ。迷惑だったかな」
「いえ、そんなことありません。タイミングが良かったから驚いちゃって」
「タイミングね。良かったんだか悪かったんだか」
彼女は微笑んで、手にしていた携帯をパタンと閉じた。ずっと握りしめていたらしい。
「予定、すっぽかされてしまって。泣いちゃいました」
泣いていた事実を無かったことにするかと思ったけれど、あっさり彼女はそう言った。
何でもないことのようにまた笑う。
「今日、私の誕生日だったんです。残業しながら彼を待っていたんですけど、
連絡がないから電話したら、今日は無理だって」
「旦那さん?」
「夫です。ずっと出張だったんで、久しぶりに帰ってきて……
誕生日に間に合わせるって言っていたのに、また嘘つかれちゃった」
「それはひどいね」
「仕方ないんです。忙しい人だから」
「……出張ってどこに?」
「さぁ……国内だとは聞いていますけど。どこかな」
他人事のような言い方に、俺は苦笑した。
「もっと自分の配偶者に愛情があるタイプだと思ってたけどな」
「出張が頻繁だから、聞いてもキリがないんです。それに本人も話したがらないし。
愛情、薄いでしょうか」
「さぁ。それは本人達が決めることだから」
俺は時計を見た。まだ夕方と呼べる時刻だ。この時間ならどこでも開いてる。
「あとは家に帰るだけなら、食事でもどう?」
「神尾さん、お仕事は?」
「俺はもともと研修で、店の方は業者の清掃が入ってるから閉店中。
なんなら店に来る? どうせ俺一人だし」
「……いえ、それはちょっと」
「警戒してるんだ」
「神尾さんは、警戒されたいんでしょう?」
彼女はそう言って俺を見つめる。いいな、と思って俺は笑った。
こういう切り返しができる女は好きだ。
「場所、変えようか。俺の家とかじゃなくて、人が多いレストランかどこかに。せっかくの誕生日に、ひとりでいたくないだろう? いい店があるから」
「……じゃあ、少しだけ」
彼女は小さく頷く。
ホテルの前で待ち合わせる約束をして、隠れ家のようなリネン室を出た。
* * *
夕暮れ時の繁華街を並んで歩いた。
彼女の今日の私服は、明るい色のシャツにタイトスカートで、やはりあまり制服のときと印象は変わらない。綺麗な女ほどシンプルなものを好むというのは、事実かもしれなかった。
「神尾さんって、急のお休みの時は何をしてるんですか?」
歩きながら彼女が聞いてきた。眉をあげて彼女を見ると、足元に視線を落としている。
ああそうか。自分の予定が突然なくなってしまったから、こんなことを聞いてるんだな。
「俺は、適当に。今みたいに遊び相手をどこかで見つけて、フラフラしてる」
「……私ですか?」
「遊び相手って言い方じゃ不満かな。本気がいい?」
「いえ、本気だと困ります」
少し苦笑して、彼女は軽く息を吐いた。
「私、趣味らしい趣味がなくて。だからいきなり予定があいちゃうと、することがないんです」
「そういう時は、声をかけてくれたら付き合うよ」
「……気持ちだけ頂いておきます。神尾さんだと、遊ぶだけで済まなくなりそう」
「遊ぶだけで済まない相手と、こうやって食事に出かけるんだ?」
「…………」
彼女は口ごもる。返答に詰まったのか。そう思ったけれど違ったようだ。
雑踏の向こうを見つめながら、彼女は呟いた。
「少し、危険なことをしてみたいのかも」
「……へぇ?」
「本当に、何かがあったら困るけど、でも、そういう匂いを嗅いでみたいというか……ごめんなさい。変なこと言って」
「いや、面白いよ。なんならもっと積極的にご期待に添うよう努力するけど?」
「それは、遠慮します。遊びなんでしょう?」
「本気だと困ると言ったのは君だよ」
遊びだの本気だの、同じような言葉を繰り返しながら、俺達は横断歩道の手前で足を止めた。信号だ。目の前をゆっくり車が横切って行く。
10秒か、20秒か。
ただ黙っているには息苦しい、中途半端な沈黙がその場に流れる。
「君の旦那って、どんな人?」
反応が見たくてそう切り出してみた。
彼女は一瞬顔を上げ、また視線を元に戻す。
困惑した空気が伝わった。
「……どんな、って改めて聞かれると、説明しにくいです
ちょっとワガママかも。ワガママで強引で、少しだけロマンチストな人」
「そりゃ大層な褒め言葉だね」
「褒めているつもりはありませんけど」
「褒め言葉だよ。いい男なんだろうな、君の旦那は」
「……さぁ。どうでしょう」
謙遜より、自嘲に近い響きが、その声にはあった。
「結婚生活に疲れた?」
「……まだ疲れるほど時間が経ってません」
そう言いながらも、どこか曖昧な口調に彼女の葛藤が表れている。
彼女の夫がどんな人間か、彼女の内側に何があるのか、そんなことはどうでもいい。
ただもっと違う顔が見たくて、首を突っ込んでみる気になった。
「君は旦那のどんな所に惚れてるの?」
「……私だけを、想ってくれる人だから」
「嫌な所は?」
「あの人が嫌なわけじゃなくて、二人の時間がないんです」
「なんだ、それなら話は簡単だ。一度話し合えばいい。もっと会いたいって、そう言うだけで済むじゃないか」
「だといいんですけど」
彼女は苦笑する。そんな簡単な問題じゃないとでも言いたげだ。俺は笑って言葉を続けた。
「そういうことにしといた方がいい。まだ新婚だろ? 話し合いの余地はいくらでもあるさ。
それでも駄目だったら、俺のところに逃げておいで。
いくらでも君の望むように慰めてあげるよ」
信号が色を変えた。けれど歩き出さずその場に佇んで、彼女は俺を見上げる。ピアスかイヤリングか、その耳元で何かが光った。
「それは優しさですか、意地悪ですか?」
「意地は悪いよ。今も、君を落とすチャンスだなって少し思ってる。
だけどもっと君が弱ってからの方が、簡単そうだから」
「……弱ってからって」
笑った彼女が前を向いた。歩き始める。
「そんな期待はやめてください。私も好きで落ち込んでるわけじゃないから。
……でも、少し嬉しかったかも」
小さく笑みを浮かべたまま、視線だけこちらに投げて、彼女が言った。
「本当は少し辛いなって思ってたから、逃げておいでって言われて、気持ちが楽になりました」
「そう、じゃ俺に落とされる気になった?」
「それは、なりません。あの人のこと大切だから」
おそらく意識的にのろけられて、俺は苦笑した。
放っておけば良かったかな。もっとどん底の気分を味わってもらえばよかっただろうか。
まぁでもそんなに焦っているわけじゃないから、こんなものだろう。
「……あ」
彼女が何かに気づいて自分のバッグの中を見る。すぐに俺にもその音が聞こえてきた。携帯の着信音だ。
「どうぞ」
「すみません。―――はい」
軽く頭を下げて、彼女が携帯に出た。
「……慎一郎? どうしたの、会議でしょう。
帰るって……今から? あと30分でつくって……家に?」
……ああ、なんだ。旦那か。
電話の調子から察するに、家に帰ってくるというんだろう。
なら俺の役目はここまでだ。
残念だけれど、また適当な相手を探さなくてはならない。
そう思った時だった。
彼女が顔をこちらに向けた。
目が合う。
そして微かに笑った。
「……うん、わかった。でも今すぐは無理。あと1時間くらいしたら帰るから、あなたもどこかで夕飯食べてきて。
……そう、ごめんね。ううん、それは気にしないで。
じゃあまた後で」
通話を終わらせて、彼女は携帯をバッグにしまった。
「……帰るんだろう?」
「帰ります。神尾さんと、ご飯を食べてから」
「俺と?」
微笑んだ彼女に、俺は半ば呆然とする。
俺は今、酷く間の抜けた顔をしているに違いない。
「旦那、放っといていいのか?」
「大切なのはあの人ですけど、今はもう少し神尾さんと話していたい気分なんです。迷惑ですか?」
(――――しまった)
一瞬、本気で胸が震えた。
見上げてくる姿が可愛いと、そう思ってしまった。
「……意外に男殺しだね」
俺は自分を誤魔化して苦笑する。
彼女は良い女だ。
出来ることなら彼女が欲しい。
泣く時、笑う時、怒る時。どんな反応をしてどんな顔を見せるのか、それが知りたい。
「神尾さんの言ってたお店って、近くですか?」
こっちの内心を知ってか知らずか、明るい笑顔で彼女が言った。
……いや、多分知っているんだろう。
ある程度のことは勘付いた上で、こうして普通に会話をしている。
境界線上を、そっと歩いている。
「ったく、かなわないな」
不幸そうな顔が綺麗に見える女は要注意だ。それだけで健気に見える。この手で手折りたくなる。
旦那からの電話の後、随分と明るい顔をするようになった彼女を眺めて、俺は口の端に笑みを浮かべる。
いつか君も、すべて壊して欲しいと望む日が来る。もうその兆候は見え始めている。俺にはその匂いが感じとれる。
その時には俺が粉々にしてあげよう。
限りなく優しく、残酷に。
――――そう、君が願う、そのままに。
END
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